・・・・☆  私が 社会人になる前のこと ・・・・ ☆

たぶん 中学2年位の時には 「保母さんになる」と もう 決めていたと思う・・・子供が好きだったし・・・
で、大学もそれに 合わせて選んだ・・・昔から テキトウだったので、条件で 決めた。

    ・幼児教育学部があって、
    ・就職率がよくて   ← これって私にしては よく考えたもんだと思う。 
    ・近所で   ← 阪急沿線で せいぜい 三宮まで。大阪はあまり考えていなかった。
    ・短大だと 大変そうだから 4年制で

・・・・という条件で、西宮市のとある 大学の教育学部の 幼児教育学科に通う事になった。

ところがですね〜・・・ 入学してみたら ごっつい ミッション系の 超マジメな学校であった・・・。
当時 私のカルチャー・ショックが 毎日のように 続いたのだが 例をあげると

   ・食事の前には 必ず 皆 祈ってる。
   ・毎日 礼拝がある。(もちろん 強制ではないのだが 1時間目が終わると パイプオルガンの音が聞こえてくる・・・)
   ・日曜学校も 近所の教会に行かなくてはならない。
   ・「パパは牧師なの」という人がたくさんいる・・・
   ・「家は教会なの」 という人もいる
   ・洗礼を受けている人が 殆どである (先生も)
   ・2学期の 〆 シメ は クリスマス礼拝となるのだが 今年度 洗礼を受けた人が段上で 皆から祝福を受ける・・・
   ・アルバイトは 基本的にいけません。 → 「しっかり お勉強しましょう」
   ・バイク(原チャリ)に乗ってはいけません。→ 「指でも怪我をして ピアノが弾けなくなります」との事・・・
   ・母親懇談会があった・・・うちの母は 「大学行ってまで そんなん 行くとは思わんかった」らしい

・・・などなど 言い出せば きりがないかも・・・・

朝は8時半〜夕方 6時まで授業があった。(中高生の 弟妹よりも 早く家を出る私)
みんな フレアースカートとか はいてる 学校だった。でも どんな世界にも やんちゃ軍団というのは存在するもんで・・・ 
よく 教授に叱られながらも お陰さまで 楽しく 通学しました★

その頃、我が家に アメリカ人の女の子が 1年滞在してた。 甲南大学に通う 交換留学生。母が 計画〜実行した。
(お母さんは すごいな〜・・・と今でも というか 今だからこそ よく 思う)
私は 学校とか バイトに忙しかったので よく 遊んだりしたかというと そうでもなかったかも・・・

で、彼女が「今度はケイコが アメリカに 来て!」と言うもんで、大学4年の夏休みに 行くことにした。
というのは、当時、そろそろ 卒論を書かなくてはならず、友達は、文献とか読んで 色々 作ってたけど いっこも進まない・・・
アメリカで ついでに 日本人幼稚園とか見に行って 感想文を 卒論にすればええわという テキトウな理由もつけて 行く事にした。

うちの 母は 「今のうちに 行っといでや〜 就職したら もぅ 行かれへんでぇ〜」と言っていた。
(親も変わっている。だいたい この当時、留学とか 外国行きを反対する親が 殆どだった)

当時、日本人学校関係の幼稚園に連絡を取るというと インターネットもないし 誰もそんなん知らんから、連絡は 
文部省から直接 連絡をとってもらう方法しか 許可されていなくて、なんか レポートを書いて 文部省に送って
文部省が  シカゴにある日本人学校付属幼稚園に連絡をとってくれた。

今 思えば 平和な時代だったと思う・・・文部省も こんな「わたくし事」にまで 付き合ってくれて・・・  
シカゴから  校長先生が 直接 手紙を下さって、歓迎って事だった・・・ あとは 行くだけ・・・・

1人旅だったけど 昔から 超マイペースで、ケセラセラの性格だったので 「なんとか なるやろう〜」位にしか 考えていなかった。

ホント 昔から 深く考えない人間だった・・・

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